質問1 毎日30分でも瞑想すれば結果は出ますか?
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瞑想について
私自身過去15年間、動機をもって瞑想していましたが、
今はその瞑想は瞑想ではなかったことがわかります。
動機は願望の一つであり、願望は思考から生じるので、
動機・願望をもって瞑想することは、思考に囚われたまま
瞑想することになります。
このように思考に囚われた状態で何時間瞑想しようと
思考の域を出ることはできません。
つまり....
悟りたい、真理に達したいという気持ちを手放さないかぎり、
私たちが思考を超えることはできないのです。
質問者さまの望まれる結果というものが何かわかりませんが
思考を超えたものを探究されているのであれば、
思考から生ずる動機・願望を捨てなければ
思考を超えたものを見出すことはできません。
意図的な瞑想が無意味であることを私たちに教えてくれる、
インドの物語があります。
弟子が師に尋ねます。
「真理に至るにはどうすればよいでしょうか?」
師は落ちていた石を2つ拾うと擦り始めました。
不思議に思った弟子は問います。「何をなさっているのですか?」
「石を擦り合わせて鏡を作ろうとしているのだよ」とは師。
呆れた弟子は言います。
「どんなに頑張っても石から鏡を作るなんて一生無理です」
真面目な顔で師は答えます。
「同じようにお前さんがどんなに瞑想しても.....」
質問2 みんな動機をもって瞑想するのではないですか?
あなたは15年やって何も成果はなかったのですか?
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動機のない瞑想
山や空、川、花々を動機を持たずに見つめることができるように、
動機をもたずに瞑想できます。
動機をもって瞑想することの危険に気づいたとき、
人は思考から生じる一切の動機・願望から離れます。
15年にわたる瞑想の成果について
体験したと【思って】いたこと・成長だと【思って】いたことは
ありますが、それは全て幻想でした。
つまり私は、瞑想法が確約するものを体験しただけです。
願望は幻想の始まりです。
願望を携えている限り、人は幻想に陥ってしまうのです。
真理を体得したと主張する人
真理を体験した・悟ったと主張する人に、
悟った人はいません。
自らの体験をそれと認識できたということは、
その人は真理・悟りを事前に知っていたということになります。
悟りや真理の体験がどのようなものかを知らなければ、
自分の体験が「悟り」「真理」だと認識できないからです。
携帯を知らない千年前の人に携帯を見つけることはできないように
悟り・真理に関する知識がない人が、自分の経験を悟り・真理と
認識することはできません。
知っていたことは真理ではない
真理は既知を超えたものです。
悟りや真理体験に関する書物を読んでその概観を知っている人は、
似たような体験をして「悟った、到達した!」と歓喜しますが、
それは悟りでも真理でもありません。
過去の聖人・賢者の体験を辿っただけです。
過去の音楽を再生しているだけです。
過去は真理とは無関係です。
イエスが夢でメッセージをくれた、
と人は興奮して語りますがイエスに関する知識のない人は、
彼の夢を見ることはできません。
つまり自覚のない自作自演です。
真理・悟りに達したといわれる聖者や僧侶について
記された書物を読んである程度の知識を得た人は
同じような体験をするかもしれませんが、
自分の頭の中にある真理を体験しているだけです。
既知を退ける
既知を超えたものに出会うには、
既知を退けなければなりません。
つまりあなたの動機・願望・知識・経験といった
既知を一掃しなければ、既知を超えたものに出会うことは
できないのです。
動機は願望の一つであり思考の一部ですから、
それを携えたままでは既知の領域から出ることはできません。
願望をもつ人が瞑想中にどんな魅惑的な体験をしようと
それは常に既知に染まっているので
真理とは全く別のものなのです。
従って....
真剣に未知なるものを探究する人は、
自分の中にある既知のものをすべて取り除きます。
幻想をもたらす願望・動機を落とします。
瞑想法・指導者・規律を落として心を空っぽにし
現在[いま]という未知なるものと出会います。
参考記事
願望・思考から自由な瞑想
真の瞑想とは動機のない瞑想
瞑想とは真理に「いま」出会うこと
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