今回は質問者さまとのやりとりを紹介したいと思います。
質問:宗教はなぜ戦争の元になるのに、
人は宗教にすがるのでしょうか?
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私たちが苦しみや悲しみから自由にならない限り、
「信仰を通して苦しみ・悲しみから自由になれるよ」と囁く
既存宗教は存在し続けるのではないでしょうか?
私たちが願望をもつ限り、
単調な日常から非日常の世界へと逃避できる
避難所(既存の宗教)はこれからも存在し続ける
のではないでしょうか?
私たちが自らの願望と、依存するものの正体をしっかりと見て
それを手放さないかぎりは.......
質問:すべての苦しみは肉体に
閉じ込められているからでしょうか?
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飢餓などの身体的な苦しみ以外の苦しみは、
肉体を持っていても自我の終焉によって
終わるのではないでしょうか?
私たちが一体化しているものを手放すとき、
精神的な苦しみ・悲しみはもはや存在することはできません。
質問:身体が無くなれば飢えもしないと感じます。
餓鬼=仏教での考え方
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誤解を生む表現をしてしまったかもしれませんが、
自我の終焉とは身体の終焉のことではありません。
私たちが一体化しているもの、
思考、恋人、家族、財産、誇り、名声、経歴、車、家 ....
こういったものへの執着を手放すとき、
精神的な苦しみ・悲しみは消滅します。
質問者さまが仰るように身体がなくなれば飢えもしませんが、
肉体が悪なわけではなく、自我・エゴ・思考がまさに苦しみや
願望の根源なので、肉体を呪うのではなくて
自己を手放すことさえできれば
既存の宗教は存在し得ないと申し上げたかったのです。
質問:しかしそれらのことを手放したとしたら、
死しかイメージできないのです。
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まさにその通りです。
しかしここでいう死は、肉体の死ではありません。
私たちが精神的にすべてに対して死ぬとき、
つまり憎しみ・嫉妬といったあらゆる感情を溜め込まず
所有するものに対して依存・執着せず、
精神的に人に執着・依存しないで生きるとき、
私たちはまさに精神的に死にながら生きているのです。
肉体の死は機械と同じで機能しなくなれば
動かなくなるだけですが
私たちが本当に恐れているのはこれではありません。
生きている間に積み上げた
名声・お金・経歴・成功・恋人・家族から
強制的に引き離されることを恐れているのです。
いつの日にか突然やってくる〈強制終了〉を恐れているのです。
ですからこれらのものを毎日捨てながら生きることができたら、
あなたにとって死は恐れるものではなくなります。
なぜならあなたは一日一日蓄積したものに対する
執着を捨てて生きているので、
死を毎日体験しているようなものだからです。
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