現在〈いま〉に在る・生きる・注視する

2019/10/20

思考 利己的な私 瞑想 問う 疑う

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質問:今に在る、今を生きる、今に集中するとはつまり
   自分を感じている時ですよね。
   自分に意識が向いている状態が、今に在ることですよね?


     =================



今に在るとき自分を感じる?



今に在るときには、思考は静止しています。

思考が静止しているときには、
自分を感じることのできる「わたし」がいないので、
自分を感じることはできません。

自分を感じることができるのは、思考が働くときだけです。

今に在る状態から思考が働き始めると途端に、
私たちは今にいることができなくなります。

というのはどんな思考も過去に基づいているから

過去に基づいている思考が動き出すということは、
頭の中の音楽が鳴り始めるということであり、
その音楽を通してしか「今」に出会うことはできなくなります。

つまり観察は過去で染められ、
行動は過去の経験に基づいているので、
未知である現在〈いま〉を新たに捉えることはできないのです。


つまり思考が働いているとき、
私たちは過去か未来に生きているのです。





幸せはその最中ではなく、少し後にやってきませんか?

というのは幸せの状態にいるとき思考は止まっているので、
幸せを感じる「わたし」は不在ですが、
その後思考が働き出すや否や「わたし」がしゃしゃり出てきて、
「わたし」は幸せだったと数秒前か数分前の幸せを
 振り返るのです。





今に集中する 



集中には一点に集めるという意味があります。
限られたものに集中するというニュアンスがあります。

刻々の瞬間は常に「今」であり、
この意味において「今」は時間に縛られていないので、
勉強のように対象が限定される場合は「集中」を、
「今」のように限定されない場合は「注視」を用いる方が
混乱を生まなくていいかもしれません。

今を注視する = 今に在る = 今に生きる 





今に在る、今を生きる



先程もお話しましたが、今に在る、今を生きるとき、
思考は静止しているので自己はいません。

つまりあなたがご自分のことを「わたし」と呼べるのは、
思考が働いている間だけだということです。


思い出してください!

「何も考えていない」瞬間を味わったことがあるでしょう?

その時、あなたがいつも呼ぶ「わたし」はいましたか?

大人しくしていたハズです。

同様にあなたが今に在るとき、「わたし」は存在しません。

つまりあなたが今に在るとき、
「【わたし】は今にいる」とは言えないのです。

もし言えるなら、思考が働いている証拠です。





一定方向に向く意識は限定されている



質問:自分に意識が向いている状態が今に在るということですか?

今に在るとき、
意識が自分という限定された対象に向くことはありません。


今に在るとき、意識は何にも束縛・限定されません。

太陽の光が特定の個人に向けられていないように、
私たちが今に在るときには、意識は限定されていないのです。





考えるときは自分に意識が向いている



つまり思考が働いているときの意識は
限定されますが、静止しているときの意識は、
太陽のように全方向に解き放たれています。


想像してください!

自分のことばかり考えていると、
周りのことが見えなくなります。

意識が自分に限定され視野が狭くなるからです

しかし思考が止んでいるとき、
意識を縛るものは何もありませんので、
意識はあらゆる方向に開いています




このように過去の蓄積物の影が一切ないとき、
私たちは今に生きることができます。


これが瞑想です。

瞑想は蓮華座で目を瞑らなければ、
できないものではありません。

思考という過去の蓄積物を取り払い、
今という瞬間に新たに出会うとき、
私たちは瞑想しているのです。


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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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