質問:今に在る、今を生きる、今に集中するとはつまり
自分を感じている時ですよね。
自分に意識が向いている状態が、今に在ることですよね?
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今に在るとき自分を感じる?
今に在るときには、思考は静止しています。
思考が静止しているときには、
自分を感じることのできる「わたし」がいないので、
自分を感じることはできません。
自分を感じることができるのは、思考が働くときだけです。
今に在る状態から思考が働き始めると途端に、
私たちは今にいることができなくなります。
というのはどんな思考も過去に基づいているから
過去に基づいている思考が動き出すということは、
頭の中の音楽が鳴り始めるということであり、
その音楽を通してしか「今」に出会うことはできなくなります。
つまり観察は過去で染められ、
行動は過去の経験に基づいているので、
未知である現在〈いま〉を新たに捉えることはできないのです。
つまり思考が働いているとき、
私たちは過去か未来に生きているのです。
幸せはその最中ではなく、少し後にやってきませんか?
というのは幸せの状態にいるとき思考は止まっているので、
幸せを感じる「わたし」は不在ですが、
その後思考が働き出すや否や「わたし」がしゃしゃり出てきて、
「わたし」は幸せだったと数秒前か数分前の幸せを
振り返るのです。
今に集中する
集中には一点に集めるという意味があります。
限られたものに集中するというニュアンスがあります。
刻々の瞬間は常に「今」であり、
この意味において「今」は時間に縛られていないので、
勉強のように対象が限定される場合は「集中」を、
「今」のように限定されない場合は「注視」を用いる方が
混乱を生まなくていいかもしれません。
今を注視する = 今に在る = 今に生きる
今に在る、今を生きる
先程もお話しましたが、今に在る、今を生きるとき、
思考は静止しているので自己はいません。
つまりあなたがご自分のことを「わたし」と呼べるのは、
思考が働いている間だけだということです。
思い出してください!
「何も考えていない」瞬間を味わったことがあるでしょう?
その時、あなたがいつも呼ぶ「わたし」はいましたか?
大人しくしていたハズです。
同様にあなたが今に在るとき、「わたし」は存在しません。
つまりあなたが今に在るとき、
「【わたし】は今にいる」とは言えないのです。
もし言えるなら、思考が働いている証拠です。
一定方向に向く意識は限定されている
質問:自分に意識が向いている状態が今に在るということですか?
今に在るとき、
意識が自分という限定された対象に向くことはありません。
今に在るとき、意識は何にも束縛・限定されません。
太陽の光が特定の個人に向けられていないように、
私たちが今に在るときには、意識は限定されていないのです。
考えるときは自分に意識が向いている
つまり思考が働いているときの意識は
限定されますが、静止しているときの意識は、
太陽のように全方向に解き放たれています。
想像してください!
自分のことばかり考えていると、
周りのことが見えなくなります。
意識が自分に限定され視野が狭くなるからです。
しかし思考が止んでいるとき、
意識を縛るものは何もありませんので、
意識はあらゆる方向に開いています。
このように過去の蓄積物の影が一切ないとき、
私たちは今に生きることができます。
これが瞑想です。
瞑想は蓮華座で目を瞑らなければ、
できないものではありません。
思考という過去の蓄積物を取り払い、
今という瞬間に新たに出会うとき、
私たちは瞑想しているのです。
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