注視が自己を暴く

2019/07/11

気づき 観察 思考 実践 利己的な私 理解 洞察 事実

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今回は注視について触れていきたいと思います。

注視の重要性についてはこれまでも何度か触れましたが、
注視の重要性を理解しても、
日常生活において自分の行動・反応に注視しなければ、
それは私たちがいつもするように知識として蓄積しただけで、
知識は何の役にも立ちません。




最近の出来事ですがこんな事がありました。

筆者は自転車に乗ってスーパーに行っていました。

いつも通る信号のない横断歩道を、
自転車で通り抜けようとしました。

車が来ていることに気づいていたのに、
車が停まるだろうと勝手に思い、
先に渡ろうとしましたが、
車も筆者と同じように止まりませんでした。

これだけでも私の行為は利己的ですが、
停まろうとしない車に「え?」と反応した、
自分にハッとしました。

「なぜ停まらないの?」というのは、
筆者の「自己」から生まれる利己的な反応です

自分と同じことをした相手にムッとするというのは、
実に身勝手です。

もし相手も同じように感じていたなら、
彼も「自分」という立場に立って、
「自転車が先に進もうとするなんてけしからん」
と自己本位に思ったことでしょう。




気づきとは、自分の反応や行動を、
批判したり受け入れたりすることではありません。


気づきとは事実への純粋なる気づきであって、
実際に起こったことをあれこれ批判・
正当化することではありません。

車が来ているのに気づいていながら、
進もうとした利己的な自分、
自分勝手な反応をした事実に、
思考を交えず気づくことであって、
自らの利己性を嫌悪したり批判したり、
正当化することではないのです。

自己批判や正当化は思考が働いている証拠ですが、
気づきに思考の介入はありません。


意志の力ではなく、気づき自体が瞬時の行動をもたします。

筆者のケースでいうと思考に気づいた瞬間、
利己的な思考は止みました。

思考に気づいた瞬間、自分勝手な反応は消滅しました。

これが気づきのもたらす瞬時の行為です。




このように気づき・注視には、
それ自体の美しさ・エネルギーがあります。

努力してどうにかしようというような、
思考の働きはそこにはありません。

注視とは事実を観察することであり、
事実を解釈して自己を変えようとすることではありません。

このような完全なる注視が、
自己の内部を明らかにします。




注視しないときに私たちは反応し、
注視するときにはあらゆる反応は止みます。


このことを頭で理解するだけでは、
あなたの真実にはなりません。

日常生活においてあなたの反応や思考に注視し、
それによって内部が明らかになるとき、
注視の重要性が本当にわかるのです。

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☆☆

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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