[自己改善]とは何とも醜い言葉です。
自我が自己改善なるものをやって、自我を膨らましています。
どんなに素敵なスーツで自我を盛装しても、
自我は相変わらずそれが最初にあったときのままです。
自己愛・自己否定・自己受容についての記事でも触れましたが、
自己改善も同じでこれらの行為の中心には
〈わたし〉がいつも動き回っています。
関連記事:自己愛の虚偽
自己受容は自己否定と同じ穴のムジナ
これまで調べてきた通り、行為の中心にいる〈わたし〉は
思考そのものです。
〈わたし〉 を構成しているのは、経験、知識、感情、知覚、
信念、理想、意見、偏見、価値観、野心、欲望、願望、執着
などの意識全体で、思考に深く関わっています。
私たちは思考が押し付けた受け売りの情報に、
忠実に従って行動します。
「自分を愛さなきゃ誰も愛せない」という受け売り ...
「自我は醜いものだから自我を否定すべきだ」という受け売り ...
いやいや「自己を受け入れなければダメだ」という受け売り ...
「自己を改善せよ」 という受け売りの情報に従って、
私たちは行動します。
関連記事:私・自己・自我・セルフとは何か?
私たちはこのように受け売りの情報を自分自身に押し付けて
せっせと自我をこねくり回しているのですが、
こねくり回しているのは一体誰でしょう?
自己を愛したり受け入れたり否定したり改善しているのは、
自我ではありませんか?
私たちは感情を抑制するように、教えられてきました。
超越するように、教えられてきました。
まるで自分の抱いている感情を抑制できる存在が
私たちの内部に存在するかのように ....
だから自己愛・自己改善・自己否定・自己受容という言葉の意味を
深く問いただすことなく、容易に受け入れるのです。
しかし実際、内部に二元性は存在しません。
二元性があるときにだけ受容・否定し抑制し
改善する存在がいるのです。
関連記事:内部の非二元性についての対話
二元性が存在しない以上、自己を愛したり改善したり
受容・否定することはできません。
あなたは例えるなら、跳ねているゴムまりです。
跳ねているあなた自身が、あなたを抱きしめたり
蹴飛ばしたりすることはできないでしょう?
改善しようとするとき、跳ねている自分を
どうにかして止めようとしているのです。
不可能なのにできると思い込んで止めようとしているのです。
〈わたし〉が、自分自身に手を加えることはできないと
理解するとき、中心である〈わたし〉の動きは止まります。
このとき、奔走する〈わたし〉の動きはありません。
これまで怒りや憎しみを抱いた自分を否定したり受け入れたり、
その感情を抑えこんだり逃避したり超越することに忙しかった
〈わたし〉ができることなど何ひとつないことを洞察すると、
〈わたし〉は止みます。
あなたの中心にいつもいる〈わたし〉のが止むと、
怒りや憎しみは消滅します。
というのも怒りや憎しみを抱いていた〈わたし〉が、
不在だからです。
自己とはこのように、自己の構造を理解することで止みます。
それは抑制、改善、否定・受容され得るものではありません。
ですからご自分の内部を、よく観察してください。
自己改善、自己受容、自己否定するとき、
誰がそうしているかを突き止めるのです。
関連記事:自己理解は自己観察によって生まれる
自分の暗部を否定したり抑え込んだり正当化したり
愛そうとすることが、自己改善、自己受容、自己否定、
自己愛の本質です。
力で抑え込んだり、抜け目ない思考が考え出した
自己受容や自己愛を実践しても、
内面を歪みなく観察しないかぎり変容することはありません。
あなたに甘い言葉で囁きかけ、叱咤激励する声こそが思考です。
思考の指示どおりに奔走するかぎり、
内面が変容することはありません。
思考に翻弄されているかぎり、あなたは思考そのものであり
それがいつもそうであるように断片的なのです。
思考を観察することはあなたという全存在を観察することであり、
そうすることであなたの全存在は観察の光に照らされ
暗部はもはや暗部でいることはできずになくなるのです。
関連記事:ありのままの自分にとどまる
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