「自分を信じる」を問う・疑う

2019/07/13

思考 利己的な私 瞑想 問う 疑う

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「自分を信じなさい」、「自分を信じる勇気」
「自分しか信じられない」などという言葉をよく耳にしますが、
 自分を信じるとは一体どういうことでしょうか?

 ここで私たちが信じている「自分」とは何でしょうか?


 関連記事:私・自己・自我・セルフとは何か?




これまで蓄積してきた知識への自信ですか?

これまでの経験からくる自信ですか?
自分の意見や結論に、自信をもつのですか?

自分の判断能力、思考能力を信じているのですか?
自分の感覚、感情に絶対的な信頼を置いているのですか?

自分の野心、願望、理想、目標を固く信じているのですか?

行ってきたこれまでの努力に、自信を持っているのですか?




これらすべては常に限定されているにも関わらず、
私たちはこれらの集合体である「自分」自身を信じる、
というのでしょうか?

不安定な土台に、自信をもつというのでしょうか?

自分自身に自信をもつことで、私たちは何を得るのでしょう?

希望 それとも 安心ですか? 




これまでの記事でお話してきましたように、
思考は経験を通して蓄積された記憶や知識の結果ですから、
記憶や知識が限定されている以上どのような
思考もずっと限定されており有限です。

環境や教育の影響を強く受ける自らの思考を信じるとは、
なんとも奇妙で危なっかしい行為ではありませんか?






自己を構成しているもの全てを、
問いただしてみなければなりません。

当然のことのように受け入れているものの正体を、
見抜かなくてはなりません。

思考を観察するとはまさに私たちの全存在を観察することであって、
私たちの全存在は思考によって組み立てられているのです。

ですから「自分を信じる」とき、
あなたは自分の思考を信じているのです。

思考を観察し、その限界・その不安定さ・その不完全さ・
その不十分さ・矛盾を理解するなら、
あなたは決して「自分を信じる」とは言えないでしょう。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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