平和を希求しつつ防衛するという矛盾

2019/07/02

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先週のワイドナショー(2019.6.30)をご覧になりましたか?

ネット上で炎上しないのかなと思う発言に筆者は冷やりとしましたが、
炎上どころかニュースにさえ取り上げられていないということに、
逆に危機感を感じています。




何よりも感じたことは、
私たちは戦争を一つの生き方として受け入れているということ!

知識豊かな人たちが[敵国]という言葉を、
当たり前のように使います。

知識豊かな人たちが「抑止力が一番大事なので強化しないと」
と主張します。

おさえつけてやめさせることがいちばん大事だと
主張しているのです。

抑止力があるから平和なんであってそれを日本はまるで
 担当してないというのが現状。抑止力がないから
 アメリカにつけ込まれる」と畳み掛けます。




自らの主張を的確に言葉にする術、人を説得する術に非常に
長けていますが、それらの主張は戦争を一つの生き方として
受け入れている人から生まれる言葉ではありませんか?

残忍な行為も暴力的行為も、
自国・自分たちの生活を守るためには仕方ない...

このように私たちが考えるのであれば、
たとえそれが最終手段であっても、
私たちは暴力を日常生活の一部として受け入れるということです。

悲しいかな、私たちの殆どは暴力的・攻撃的です。




その中でも、事実を語っていた方もいらっしゃいました。

日本人は危機感を持つべきだという意見に対して
「でもこれまで日本は攻撃されたことはない」と。

「アメリカが基地も含めて本当に出ていってくれるのなら、
 安全性の確認もとれないような戦闘機も買わなくてすむわけで.....」

ただ続けて「それだけのお金があったら日本を守れる・武装できると思う」
と語っていました。




誰もが防衛することを考えているようです。

武器を一切所有しない丸裸の国を戦争を永久に放棄し平和を希求する
国をいったいどこの国が攻撃するというのだろう? とは問いません。

理想論だと思われる読者の方もいらっしゃるかもしれませんが、
筆者は本気で思います。

なぜなら武器の一切を放棄している国を一方的に攻撃するなら、
よその国が黙ってはいないからです。

何をするかわからない指導者であっても、
そんなことをすればよその国からどれだけの制裁を受けるか
容易に予想できますし、自ら自国を危機的状況に晒すような
ことはしないでしょう。

なのにどんな鎧で固めるか、核兵器なのかあるいはアメリカ
という後ろ盾なのかを、私たちは話し合っているのです。




守るということは、暴力を受け入れるということです。
防衛するということは、戦争を受け入れるということです。
敵という言葉を使うのは、私たちが攻撃的で暴力的だからです。




優位に立とうすること・損得で考える攻撃的な態度こそが、
敵を生むのです。

私たちは外側に生み出した自分たちの攻撃性・暴力性に
気づかなければなりません。

内面が暴力的なまま、外側に平和をもたらそうとしても
できるわけがありません。

そのようにするなら、彼はただ言葉遊びをしているのです。

戦争反対を叫んで平和を希求しつつ、
最悪の事態に備えて防衛する滑稽さを笑い飛ばす人を
テレビで拝見したいものです。




最後に....

永久に戦争を放棄するとき、防衛することをやめるとき、
現在使われている莫大な防衛費がそっくりそのまま浮きます。

どこにも頼らずよりかからずにいることは可能なのかという質問に
「可能だけどもその場合は核開発が必要」と仰っていましたが、
攻撃されるかもしれないという恐れ、守ってもらおうという
依存や欲望、他国より優位に立とうとする攻撃性の一切を持たず、
ひとり立つことは可能なのです。

そのような人にとってそのような国にとって、
防衛費というものは不要なのです。

このような方向に世界全体が動くなら、
貧困問題を含むあらゆる問題は一気に解決するでしょう。

抑止力があるから平和なのではありません。

私たちの内部の暴力性・攻撃性・自己中心性という
戦争の根っこをすべて取り除くとき、平和は訪れるのです。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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