玉ねぎをむくように自己を取り払う

2019/06/10

愛 真理 自由 秩序 気づき 観察 思考 利己的な私 理解 洞察 事実 瞑想 問う 疑う

t f B! P L






人は玉ねぎのように、何層もの膜に覆われています。

私たちはせっせとあらゆる知識・経験を溜め込み、
この膜を強固にします。

鎧を強固にします。

膜には、私たちが受けた教育、影響された人物や思想、
属している宗教、これまでの経験などの膜があります。

長い間をかけて作り上げてきた膜を私たちは大切にし、
誇らしくさえ思っているわけですが、
膜が観察を歪めていることに、私たちは気づいていません

膜がわたしとあなたの間に陣取り、
私たちを分離していることに気づいていません。

あなたが大事にしている幾層もの膜は、
実体がないばかりか、分離・対立をもたらしているのです




幾層にもなる膜を通して私たちは物事を見ます


途方もない数の膜を通ってゆくあいだに
あなたが観察しているもののありのままの姿は失われ、
あなたという中心に届く頃には全く別のものになります

これをみんながやっているのだから、
観察する人の数だけ物の見方があるのは当然です。

価値観の膜、信念の膜、理想の膜、宗教の膜、
神の膜、好き・嫌いの膜、快・不快の膜、
欲望の膜、国家の膜、伝統の膜、文化の膜、
倫理の膜、意見の膜、知識の膜、感情の膜 etc.......

これらの膜によって導き出された答えを、
私たちは問うことも疑うこともせず、それに固執します。

こうして自分の答えをしっかり携えて、
他の人と議論しに出かけるのです。




あなたが導き出した結論や意見がどんなに不安定なものか
偏りがあって部分的なものであるかに気づいていますか?


自分色に染まっていて不完全で不安定なものを頼りにして、
日々生じる問題の臨んでいることに気づいていますか?

その脆弱さを理解して、膜の一つ一つを調べましょう。

膜を通して見ることを止めましょう。




思考の限界を本当に実感したら、思考に支配されません


思考の動きに、あなたは敏感になります。

このようにあなたが注視するとき、思考は止みます。

今、あなたの存在全てが目覚めています。

脳・精神・五感は敏感です。

注視することで、これまで信頼しきっていた幾層もの膜は
一気に取り払われます。


関連記事:気づき・アテンション
     アクティブな脳は問う・疑う




玉ねぎの皮をむいていくと、何が残りますか?


最後の最後までむくとそこには空間が広がります。

空間以外、そこには何もありません。

何もないことを英語でナッシングと言いますが、
文字通り物が一つもない、空だけがそこにあります。

ナッシング → nothing → not a thing → 物が一つもない




思考の限界を洞察すると、
思考は止むので同時に膜は消滅します。


あなたとわたしを隔てていた膜、
あなたと他者を分けていた膜はもう存在しません。

二つの玉ねぎの皮を最後までむくと、
もうそこには二つの玉ねぎを分つものはありません。

あなたとわたしを分けていた膜は、いまや存在しません。

あなたとわたしを分けていた思考は止みます。

あなたとわたしを隔てていたものの正体は、
思考だったのです。





思考が止むと空間が現れます。


闇が止むと光が現れるように、思考が止むと空間が現れます。

思考の影響を受けない空間は、物事の真偽を即座に洞察します。


関連記事:ナッシングネス・空っぽと思考
     思考が理解を妨げ空間が理解をもたらす




注意してください。


「わたしは実際には存在しないのだ、空なのだ、
 わたしと他者を隔てるものなど実際には存在しない」

このように結論づけて、概念を作り出さないでください。

ここに書いたことが概念になると、
もうそれは真実ではありません。

概念は固定されたもので、それは新たな膜になります。

真実は決して、固定された何かではないのです




あなたが実際にここまでのプロセスをふまなければ、
ここに書かれたことが本当かわかりません。


ここまでのプロセスを踏んで初めて、
隔たりがないことを洞察するのであって、
概念を作り上げてマントラのように唱えても
それは事実ではありません。

山頂からの景色を見るためには、
自分の足で山に登らなければ不可能です。

「分離・限界のないもの」に出会うためには、
あなたの内部にある分離の原因を取り除かなければ
出会えないのです。




全てのことを疑い、問いましょう!


どんなに偉い人の言葉であってもです。

全てを問い、調べて、見出すのです。

そうでなければどんなに素晴らしい概念も
役に立たないどころか新たな膜となって
あなたを覆い隠してしまいます。




思考の限界を理解しましょう。


そして思考の動き・反応、人間関係という鏡を通して、
ありのままのあなたを見つめます。

不断の注視が、この膜を取り払います。

膜がなくなると、
膜に行動を支配されなくなります。

あなたの行動をいつも決定してきた中心の「わたし」は、
もういません。

その行為は空間という無限の全体から、生まれます

中心が不在の行為は、それ自体に秩序をもつのです。



関連記事
聴く・注視する
私/自己/セルフ/自我の正体
自己・自我が止むと美は現れる
自己・自我を自発的に終わらせよう
全体性・ホールネスvs.部分的な活動
部分的行為は混乱を生み全体的行為は秩序を生む

このブログを検索

自己紹介

自分の写真
真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ