相手が自分の思っていた人ではないとわかると
私たちは心の扉を閉じます。
そして一度閉められた扉が開くことは、中々ありません。
何でも話せる友達だと思っていた相手と喧嘩して、
一方的に連絡を断たれたことはありませんか?
どれだけ誤っても、分かち合おうと試みても、
許してもらえなかった経験はありませんか?
イメージと違ったとガッカリして、
相手の連絡先を消去したことはありませんか?
相手をブロックしたことはありませんか?
仲直りしたいと言われたのに、
どうしても許せず拒否したことはありませんか?
あなたはとても傷ついたのかもしれません。
相手は大きな過ちを犯したのかもしれません。
しかし....
どんな過ちだとしても
相手が真摯に誠実に向き合おうとしているのなら、
あなたは同じだけの真摯さと誠実さで
相手の言葉や気持ちと向き合うべきではありませんか?
相手が向き合おうとしているのに、
過ぎ去った過去にしがみついて
目の前の相手を見ようとしないのは不誠実ではありませんか?
私たちは皆、常に変化しています。
生きているのですから変化するのは当たり前です。
だから人は変わるのです。
あなたを傷つけた相手も変わります。
あなたを傷つけたときの相手とは、
別人のようになっっていることだってあります。
あなたも以前のあなたではないように、
相手も以前の彼/彼女ではないのです。
自分を大事にするあまり大切なものを失ってない?
◎ あんな想いは二度としたくない
◎ もう二度と傷つきたくない
◎ 誤られても心の傷が癒えるわけじゃない
◎ あんなにひどい事を言っておいて今さら何?
◎ 本心じゃないって言われたって、忘れられないわ!
あなたはこのように自分のことで一杯ではありませんか?
そのことに愕然としませんか?
相手がどのような気持ちで謝りにきたかに思いを巡らすことなく
自分の負った傷・想い・プライドで一杯です。
過ぎ去った過去を頑なに忘れず、
大事にしまいこんでいませんか?
忘れなければ今以上の傷は負わないとでも言わんばかりに
あなたは何度も何度も傷ついた過去を
頭の中で再生していませんか?
自分を守ろうとして傷ついた過去を記憶します。
しかしこの記憶が、私たちを人から遠ざけているのです。
記憶こそが真の関係を築くのを妨げるのです。
過去の記憶が、私たちを今以上に孤独にするのです。
自分自身を守ろうとして忘れずにいた記憶が、
私たちを守るどころか孤独するのです。
あなたが拒否した相手は、
もしかしたら生涯の友になっていたのかもしれません。
あなたが苦しいときや悲しいときに
支えてくれる存在になっていたかもしれないのです。
しかしあなたは傷つけられた記憶に支配されて、
現在の相手と向き合いませんでした。
相手を拒みました。
あなたの過去の記憶が、相手を拒んだのです。
過去の記憶が、あなたの行動を決定したのです。
記憶のせいで生涯の友になるかもしれなかった相手を
あなたは失ったのです。
関連記事:利己性が悲しみと孤独の原因
癒えない心の傷を観察し自由になる
傷ついたときに壁を作るのは簡単です。
誰にも傷つけられないよう、人との関わりを断つのは簡単です。
でもその先に何があるのか、気づいていますか?
高くて厚い壁を築き上げたあなたは、
満足するかもしれません。
誰もあなたを傷つける人はいないから!
しかし....厚い壁の背後であなたは一人ぼっちです。
あなたの城がどんなに快適でも、
そこから出なければ人と真に関わることはできません。
だから記憶という壁を壊してしまいましょう!
壁を築く危険を見て壁を築くのを止めましょう。
そうしなければ真の関わりを持つことはできません。
そうしなければあなたはいつまでも、
過去に生きることになります。
記憶は過去です。
過去は過ぎたものです。
過去は一時停止中の画面のようなものです。
なのに過去という色眼鏡をかけて現在をみても、
その眼鏡はありのままの姿を映し出してはくれません。
一方、今は変化します。
今は動画です。刻々と変化します。
今に対応するには、あなたは敏感でなければいけません。
動きのあるものに対応するには、
あなた自身が機敏でなければならないのです。
現在に生きるとは、川の流れのようです。
川の流れのように、流れていなければなりません。
流れていると、当然危険に出会うこともあるでしょう。
大きな岩にぶつかりそうになるかもしれません。
現在〈いま〉に生きていると、
傷つくこともあるかもしれません。
しかし流れているとき、あなたは目覚めています。
いつ何に出会うかわからないからです。
あなたは目を大きく見開いて注意深く、
流れてくるものを見ています。
あなたは機敏なのでどのような危険にあっても、
瞬時に対処することができます。
関連記事:事実を観察する鋭敏な精神
アクティブな脳は問う・疑う
過去に生きるとは
流れのない池の中に生きるようなもの
過去に生きるのは安全かもしれません。
危険なものに出会うことはないからです。
岩にぶつかることもありません。
しかしその精神は非常に鈍く、半分眠っています。
静止した池の中にいるときに、
目覚めている必要はないからです。
しかしそもそも池の中に生きることは安全でしょうか?
過去に生きることは安全でしょうか?
池の中で安心しきっている精神は、
生の美しさに気づくことはありません。
このように生きることは安全でしょうか?
過去を大事に携えながら、
生の喜びを感じることはできません。
生の美しさに知りたいのなら、
生の喜びを感じたいのなら、
池から出て川に飛び込まなければなりません。
現在〈いま〉に生きずして、
生の美しさ・喜びを知ることはできないのです。
関連記事:生きるとは注視、聴くこと
どのように生きたいですか?
流れの中に生きるか池の中に生きるかは、
あなたの自由です。
現在に生きるか過去に生きるかは、あなたの自由です。
実際の相手と関わるか過去の相手と関わるかは
あなた次第です。
変わりゆくものを変わりゆくままに見るとき、
そこには美があります。
記憶の介入なく目の前のものと関わるとき、
精神は無限大です。
そのときにのみ私たちは、過去に囚われることなく、
自由に生きることができるのです。
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