楽観主義者は幸せ? 楽観主義は観念で事実ではない

2020/03/18

思い込み 条件付け 思考 動機 欲望 願望 利己的な私 理解 洞察 事実

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A:楽観主義者の方が悲観主義者より、
  幸せに生きられますよね?

私:まずなぜこのような問いをされているのか、
  問いの背後にどんな願望があるのか、
  理解されていますか?

A:はい、幸せに生きたいからです



私:願望があるときそこには必ず、
  恐怖が存在することをご存知ですか?

  幸せに生きたいという願望の背後には、
  不幸になることへの恐れがあります

A:言われてみればそうですね

私:恐れているあなたが、
  この質問をしています

  確かさを求めているあなたが
  この質問をしていることに
  気づきましょう

  あなたの恐怖や願望から
  この問いが生まれたことに
  気づきましょう



A:何が仰りたいのですか?
  恐れていたら答えを見出せないのですか?
  願望があったら答えに辿りつけないのですか?

私:恐れている精神は
  物事を正確に見ることはできないし
  なによりもその精神は正直ではありません
  
  恐れている精神は偽ります

  恐怖から逃れるためには
  あなたはどんなことでもするからです

  安心感や確信を得るためなら
  どのようなこともでっち上げます

  都合の良い観念を自ら作り出して 
  それを信じることに安心を見出して
  生きるようになります

  しかしあなたの信じる観念は
  あなたの恐怖の色に染められています

  恐怖があるとき
  人は物事を正確に見れないし
  問いに適切に応答できません

  恐怖の中で見出す答えは
  恐怖に染まるのです



A:つまり私自身の恐怖を片付けないと
  どのような問いにも正しく応答できない
  と仰るのですね?

私:はい
  
  あなたの思考が楽観主義という観念で
  自らの恐怖を覆い隠そうとしている
  ことに気づくことが大切です。

  恐怖が根本的な問題だたはずなのに、
  楽観主義か悲観主義かという
  新たな問題をあなたはこしらえたのです

  この思考の構造を理解しましょう

  思考はあるパターンを作り出しては
  その中に落ち着くことで安心します

  しかしそのパターンがひとたび
  あなたによって、あるいは他者によって
  疑われると思考はまた別の
  安全なパターンに乗り換えます

  こうして思考は一つのパターンから
  別のパターンへ、一つの信念から別の信念へ
  悲観主義から楽観主義へと次々に姿を
  変えるのです

  思考は何か重大なことに
  取り組んでいると思い込んでいますが
  実際何をしているかというと
  自らの領域内をウロウロしているだけです
  
  断片的な思考が作り出すパターンはどれも
  さらなる断片・混乱・矛盾しか
  生み出しません



A ということは悲観主義も楽観主義も
  私を幸せにしてくれないのですか?

私 悲観主義も楽観主義も
  思考の運動であることを
  理解されましたか?

A はい

私 では幸せは思考と
  関係しているのでしょうか?

  楽観主義があなたを幸せにするなら
  幸せは思考と関係していることになります

  幸せは思考が止んだときに
  出会えるのではないでしょうか? 

  幸せだと認識するのは
  他ならぬ思考の運動ですが
  思考は幸せを感じている最中ではなく
  その後に来るようです

 「さっきは幸せだった〜」
 「元カレといるときは幸せだったな」
  というように一秒後であれ一時間後
  一年後であれ幸せを認識するのは
  思考が作動しているときであって、
  幸せを感じているときではありません

  つまり思考が静かなときに
  幸せを感じるのであって
 「あ〜さっき幸せだったな」
  と[思う]ときには、
  幸せはもう過ぎているのです

  ですから思考を栄養にして生きる
  楽観主義者や悲観主義者たちの
  思考はいつも活発なので
  主義を持たない人よりはるかに
  幸せを感じにくいのです
  


A しかし楽観的に生きる方が明らかに
  心も体も健康に過ごせますね?
  悲観的になるよりは。

私 楽観という言葉を辞書で調べると.....

  -  物事の先行きをよい方に考えて心配しないこと
   全ての可能性を信じ世の中や人生を
   良いものと考えること - とあります

  記事タイトル下の写真をみて、
  コップにワインが半分も入っている
  という人が楽観的な人、
  半分しか入っていないという人が
  悲観的だと言われますが
  半分ワインが入っている
  というのが事実です

  つまり..ありのままの事実を見ていたら..
  世の中の出来事を歪みなく観察していたら
  物事の先行きをよい方に〈考える〉ことや
  人生を良いものと〈考える〉ことは、
  必要ではないのです

  事実を直視するとき思考は必要ですか?

  機敏な精神は物事が起こったそのときに
  それと出会いその本質を理解しますが
  事実を見ることを面倒がる精神は
  物事を見るのに主義や観念という
  眼鏡が必要になります

  物事を刻々と観察するには
  ものすごいエネルギーが要るので
  精神はシャキッと目覚めて
  いなければなりませんが
  怠けものの精神は
  刻々の変化についていけないので
  主義や観念で事実に対処しようと
  するのです

  つまり主義をもつ精神はとっても、
  怠惰で鈍いということです

  自分の周りで起こっている事に
  注意を払えばいい話なのに、
  それを怠るから、
  主義や観念が必要になるのです



A しかしどちらかと言えば、
  楽観主義者の方が幸せでしょう?

私 不幸になることへの恐怖が
  あなたを主義という観念から
  そうしても離さないようですね

  どちらかと言うなら仰るとおりでしょう

  ハッピーな映画を見て人生を過ごす方が
  ホラー映画を見て人生を過ごす人よりも
  幸せを感じるでしょうから....

  ただ忘れて欲しくないのは
  あなたが現実を楽観的に〈考え〉ても
  それは考えであって思考は
  事実ではないのです

  幸せでいたいのなら
  自分自身の恐怖や願望を
  調べなければならないし
  思考の構造を理解しなければなりません
  
  でもあなたが虚偽の幸せでいいのなら
  思考が監督した映画を見て過ごしていれば
  あなたは幸せなのかもしれません

  ただしいつの日かあなたのパターンを
  脅かす誰かがやって来て
  あなたは別のパターンをまた
  作り出なければならなくなるでしょう

  というのはあなたは根本的な問題に
  取り組んでいないからです

  不幸になることへのあなたの恐怖を
  解決してはいないからです

  未解決のものは
  何度も何度も違う形をとって
  解決するまであなたの前に現れます


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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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