A 好悪で考えるところから脱却しないと、
高い境地には到れませんか?
ところがこの好悪・快不快など、
思考から脱却することは、
(様々な判断を加えないこと)は、
大変に難しいですよ、どうですか?
私 あなたが高い境地に到るために、
思考から脱却しようとするなら、
まさにその行為があなたが未だに、
好悪・快不快の範囲内で考えていること、
思考の領域内にいることを、
証明しています。
思考から自由になるのは、
思考の虚偽を見る者だけであり、
彼の洞察が思考が作動する瞬間を捉えて、
思考の動きを静止します。
これは難しいかどうかの問題ではなく、
思考全体の動きを洞察するかしないか、
ただそれだけです。
生活する上で記憶されないといけない、
事柄においてのみ思考は有益であり、
それ以外においては有害であることを、
洞察するかしないか、それだけです。
多くの人はこれを理解しないまま、
思考を片付けようとするから、
思考から自由になれないのです。
思考を不完全なものと理解しながらも、
それでも何かを考えるべきだ、
考えることで問題は必ず解決できる、
思考で思考を克服できると信じています。
これが間違いです。
思考全体の動きを理解していないから、
彼らの中で思考は活動し続けるのです。
しかし思考全体の動きを理解した者は、
必要なときに〜仕事・勉強・会話 etc 〜
思考を働かせ、思考が有害な領域においては、
精神は思考から自由です。
A 好悪・嗜好から、はじめっから脱却している人なんて
いないと思うのですよ。
いたらそもそも「脱却」なんて言葉も要らない。
人は意識して脱却するように、
目指すものだと思いますよ。
まったく目指さない人のほうが、
多いのかもしれないが...
私 仰る通り、始めから脱却している人は、
殆どいないでしょう。
しかし思考から脱却しようと試みることが、
問題だと申し上げているのであって、
始めから思考から自由であるべきだ、
とは申し上げていません。
私が指摘しているのは、
思考から脱却しようと目指す行為は、
なりゆく行為であり、
そのとき思考、つまり自我は、
なりゆく行為の中で活発だということです。
なりゆく行為はそれが出世であれ、
精神的に高い境地を目指すことであれ、
思考つまり自我の動きに他ならないので、
思考から自由になるどころか逆に、
思考(自我)を強化します。
なりゆく行為はどれも例外なく、
自我の動きであることを、
あなたが洞察すると、
思考は自ずと静まります。
これまであなたは思考を静めるために、
色々なことを実践されてきたかもしれませんが、
思考が静まる時というのは、
思考の構造を理解したときです。
思考の構造を理解したら、
あなたが思考から脱却しようと試みなくても、
あなたの理解が思考を解体します。
多くの人は思考から自由になろうと、
ありとあらゆる方法を実践しますが、
それらの試みの中で、
彼らの思考が激しく動いていることに、
気づいていません。
しかし洞察・観察・気づき...
どう呼んでも構いませんがこれらには、
利己的な思考の干渉はありません。
思考の構造を洞察すること、
思考の動きを観察すること、
思考の動きに気づくことには、
自我の動きがありませんので、
洞察・観察・気づきが、
思考(自我)を強化することなく、
速やかに思考を片付けます。
一方、なりゆく行為においては、
思考の動きは非常に活発なため、
思考(自我)を強化することはあっても、
解体することはありません。
つまり意図して行う行為はすべて、
思考(自我)を強めてしまうのです。
思考(自我)が関与しないものが、
思考を終わらせることができるのであって、
思考そのものが思考を終わらせることはできません。
ですから思考の構造をよく理解することが、
何よりも重要なのです。
理解したら思考は持ち場内では活躍しますが、
生の大部分の領域においては、
精神は思考から解放され自由です。
このように思考から自由な精神が、
優しさや思いやり、慈しみや愛というものを、
もつことができるのではないでしょうか。
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