愛は無限で無償である:愛があるとき自我はいない

2020/03/01

愛 真理 自由 秩序 瞑想 問う 疑う

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A いかなる条件にせよ、条件を付けたものは、
  無償の愛ではないという見解を
  あなたは持っているようです。

  たとえば神が愛する人だから彼を愛するのだとか、
  この人の心の奥には神の御霊が宿っているから、
  この人を愛するのだとか、
  私の子どもだからこの子を愛するのだとか、
  そういう愛し方は条件を付けて愛しているので、
  無償の愛ではないと

私 ブログを通して何度かお伝えしてきたことですが、
  私はいかなる見解も持ちません。

  愛とは何かを調べることができるのは、
  見解や結論をもたずに探究するときのみです。

  ですから愛についてあなたが既に
  何かしらの見解をお持ちなら、
  それを一掃することから始めなければなりません。



A 仕切り直しましょう。
  無償の愛とは何でしょう?

私 私たちは愛の前に色々な言葉をくっ付けます。
  両親への愛、子供への愛、恋人への愛、
  国家への愛、信仰への愛、有償の愛、無償の愛というように

  しかし何かに限定された想いが、愛でしょうか?

  それとも愛とは特定の対象に
  限定されないものでしょうか?



A 愛が限定されないなら、
  子供に対する私の想いは愛ではないことになります。

私 ご自分の想いを調べてください。
  あなたの想いが愛であるかどうかを、正直に調べるのです。

  あなたはあなたの子供だから愛しているのではないですか?

  あなたが本当に愛しているなら、
  あなたの愛が自分の子供に限定されることはなく、
  あらゆる子供、あらゆる人に及ぶのではないですか?

A しかし私の愛はある特定の人に限定されているようです。
  妻や子、親しい友に...

  限定されるものが愛ではないなら、
  私が彼らを大切に想う気持ちは愛ではないということですね?



私 私たちは愛していると思っていますが、
  殆どが実際には愛していないということを
  自覚しなければなりません。

  当然のように愛だと思っている想いが、
  本当に愛なのかを、調べてみなければなりません。 
  
  私たちの知っているのは自分の子供、自分の両親、
  自分の恋人を大切に想う気持ちであり、
  【自分】に関わる者に限定された、
  非常に個人的で利己的な想いです。

  これを人は愛と呼びますが、
  本当に愛なのかを、私たちは一緒に
  探究しようとしています。

A 仰るように私たちが本当に愛を知らないなら、
  愛について描写することはできないし、
  描写したとしてもそれは
  単なる概念に過ぎないのではないですか?  

私 仰る通りで、愛を知らない私たちは、
  愛を描写することはできません。

  ではどうすればいいのか? 

  私たちにできることは一つだけ、
  それは愛ではないものを消去することです。

  利己性に染まった想いを一つずつ片付けるとき、
  〜文字通り全てを否定しきったとき〜
  残ったものが愛ではないですか?



A 特定の人に限定されたものが、
  愛ではないことはわかりました。

  しかし私は無償の愛について知りたいのです。

私 あなたは無償と仰りますが、
  愛そのものが無償なのであり、
  無償以外の愛などありません。

  有償ならそれは愛とは言えず、
  己の願望が絡んだ何か別の想いです。
 


A あなたが愛を感じる場面を具体的に教えていただきたい。
  言葉だけではどうも自分が愛することは、
  不可能であるように思えるので。

私 いいですか?

  私が愛を描写することを避けたいのは、
  描写によってあなたが新たな概念を形作り、
  今度は概念を追い求めるようになることを、
  危惧しているからです。

  過去に聖者と呼ばれる人たちが、
  真理について、悟りについて、瞑想について、
  彼らなりのやり方で描写してきました。

  その描写に人々は魅了され触発され、
  それを概念化し体系化して、
  人々は今も概念を求めています。

  わかりますか?
  真理ではなく概念を、です。
 
  私も過去に同じ失敗をしたのでわかるのですが、
  真理についての描写は真理ではありません。

  愛についての描写は愛ではないのです。

  海を掴もうと海水をボトルに入れて持ち帰っても、
  海を理解したことにはならないように、
  描写を通して愛を掴もうとしても、
  愛に触れることはできません。



A 仰ることはわかりますが、
  私たちだって愛を知っていると思うのです。

私 はい、それは一瞬かもしれないし、
  時折感じることかもしれませんが、
  殆どの方は愛に触れたことがあると思います。

A そうでしょう?だから言っているのです。
  あなたが愛について具体的に描写したら、
  「自分だって愛はある」と私は思えるのです。

私 日常生活の中で、自我が大人しくなる瞬間を
  あなたは味わったことがないですか?

A あります。
  何かに夢中になっているとき、我を忘れます。

私 その瞬間です。

  自己が止んだ瞬間、愛はそこに在ります。

  自我が止むと、あなたが愛を求めなくても
  愛はそこに在ります。


  ・恋人の話に耳を傾けているとき
  ・まだ幼い子供が無邪気に笑い合っているのを見るとき
  ・赤ちゃんを見るとき
  ・迷子になった子供に話しかけるとき
  ・困っている人に手を差し伸べるとき
  ・心の美しい人に出会うとき
  ・友と対話するとき
  ・悩みを抱えている友と一緒にいるとき
  ・我を忘れるとき
  ・早朝、小鳥のさえずりを聞くとき
  ・荘厳な山を目にするとき
  ・空一面に輝く星を見るとき
  ・海や川を眺めるとき
  ・鴨の水浴びを見るとき
  ・太陽の暖かさを感じるとき
  ・和やかな風が頬を撫でるとき
  ・セメントの隙間から萌え出づ雑草をみるとき
  ・裸木をみるとき
  ・雨音を聴くとき
  ・モーツァルトやベートーベンの音楽を聴くとき
  ・心を注視するとき
  ・広大な世界が涙を流しているように感じるとき
  ・人間の尊厳を奪われた人達の苦しみを感じるとき


  このようなとき愛が流れているように思います



A しかしこのような瞬間は誰にもあるのに、 
  何故あなたは愛が在るとき利己性はないと
  言い切るのですか?

  これを聞くと殆どの人は利己的だから、
  愛することはできないんだと思ってしまいます。

私 言い切っている訳ではありません。
  ただ事実を伝えています。

  このことを一緒に調べてみましょう。
  
  あなたが愛を感じる瞬間に利己性はありますか?

  無邪気な子供の笑い声に微笑むとき、
  あなたの内部に利己性は存在しますか?

A 微笑むときはありませんが、
  うるさいと思う時には利己性が存在すると思いますw



私 仰る通りです。

  愛が在るとき利己性は存在しせん。

  善と悪が内部で同居することはないように、
  愛と利己性が共存することはありません

  愛が在るとき自我は存在できず、
  自我が存在するとき愛がありません。

  ですから愛は『あるかないか』の二択しかあり得ないのです

  あなたが仰るように殆どの人は利己的なので
  自我が不在のときなんて滅多になく
  したがって愛を感じることも滅多にありません

  だからこそ私たちは自らの利己性に
  目を向けなければならないのです

  自分自身の利己性に敏感でなければ私たちが愛に出会うのは
  いつも一瞬であり愛がいつも流れることはありません



A 誰もが愛に触れているということですね?
  誰もが愛を内に持っているということですね?

私 あぁ、あなたは愛を観念にしようとしています。

  あなたの中身が利己性で一杯のとき、
  あなたの内に愛が溢れることはないし、
  そもそも愛を内に持つことなどできないのです。

  人はみな愛を内に持っているという概念は、
  希望を与えてくれるし、
  いつも内部に愛はあるんだ、
  という気持ちにさせてくれるかもしれませんが、
  これは事実ではありません。

  事実は利己性が活発なとき、
  私たちは誰も愛することなどできません。

  利己性は大体いつも活発なので、
  一日の大半私たちには愛がないということです。

  だから人を傷つけても何とも思わないし、
  競い合うことにも違和感がないのです。

  一日に数分愛を感じるとしても、
  私たちは利己性を一掃しないかぎり、 
  一日の大半を愛を感じずに過ごすことになる、
  という事実を見つめましょう。

  愛のない人生がいかに冷たく虚しいか、理解しましょう。



  内なる自我が姿を消すとき、
  人はようやく愛に触れます。

  風のように愛は来ても見えず、
  去っても跡を残しません。

 「凄いだろ、これが私の愛だよ」
  と自慢げに主張してくる自己が不在のとき、
  愛は自然にそして何の前触れもなく、
  私たちの身体を通して流れ行動に現れるのです。

  自己という中心から生じる想いを一掃したとき
  残るものが、不純物を一切含まない愛なのです

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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