A いかなる条件にせよ、条件を付けたものは、
無償の愛ではないという見解を
あなたは持っているようです。
たとえば神が愛する人だから彼を愛するのだとか、
この人の心の奥には神の御霊が宿っているから、
この人を愛するのだとか、
私の子どもだからこの子を愛するのだとか、
そういう愛し方は条件を付けて愛しているので、
無償の愛ではないと
私 ブログを通して何度かお伝えしてきたことですが、
私はいかなる見解も持ちません。
愛とは何かを調べることができるのは、
見解や結論をもたずに探究するときのみです。
ですから愛についてあなたが既に
何かしらの見解をお持ちなら、
それを一掃することから始めなければなりません。
A 仕切り直しましょう。
無償の愛とは何でしょう?
私 私たちは愛の前に色々な言葉をくっ付けます。
両親への愛、子供への愛、恋人への愛、
国家への愛、信仰への愛、有償の愛、無償の愛というように
しかし何かに限定された想いが、愛でしょうか?
それとも愛とは特定の対象に
限定されないものでしょうか?
A 愛が限定されないなら、
子供に対する私の想いは愛ではないことになります。
私 ご自分の想いを調べてください。
あなたの想いが愛であるかどうかを、正直に調べるのです。
あなたはあなたの子供だから愛しているのではないですか?
あなたが本当に愛しているなら、
あなたの愛が自分の子供に限定されることはなく、
あらゆる子供、あらゆる人に及ぶのではないですか?
A しかし私の愛はある特定の人に限定されているようです。
妻や子、親しい友に...
限定されるものが愛ではないなら、
私が彼らを大切に想う気持ちは愛ではないということですね?
私 私たちは愛していると思っていますが、
殆どが実際には愛していないということを
自覚しなければなりません。
当然のように愛だと思っている想いが、
本当に愛なのかを、調べてみなければなりません。
私たちの知っているのは自分の子供、自分の両親、
自分の恋人を大切に想う気持ちであり、
【自分】に関わる者に限定された、
非常に個人的で利己的な想いです。
これを人は愛と呼びますが、
本当に愛なのかを、私たちは一緒に
探究しようとしています。
A 仰るように私たちが本当に愛を知らないなら、
愛について描写することはできないし、
描写したとしてもそれは
単なる概念に過ぎないのではないですか?
私 仰る通りで、愛を知らない私たちは、
愛を描写することはできません。
ではどうすればいいのか?
私たちにできることは一つだけ、
それは愛ではないものを消去することです。
利己性に染まった想いを一つずつ片付けるとき、
〜文字通り全てを否定しきったとき〜
残ったものが愛ではないですか?
A 特定の人に限定されたものが、
愛ではないことはわかりました。
しかし私は無償の愛について知りたいのです。
私 あなたは無償と仰りますが、
愛そのものが無償なのであり、
無償以外の愛などありません。
有償ならそれは愛とは言えず、
己の願望が絡んだ何か別の想いです。
A あなたが愛を感じる場面を具体的に教えていただきたい。
言葉だけではどうも自分が愛することは、
不可能であるように思えるので。
私 いいですか?
私が愛を描写することを避けたいのは、
描写によってあなたが新たな概念を形作り、
今度は概念を追い求めるようになることを、
危惧しているからです。
過去に聖者と呼ばれる人たちが、
真理について、悟りについて、瞑想について、
彼らなりのやり方で描写してきました。
その描写に人々は魅了され触発され、
それを概念化し体系化して、
人々は今も概念を求めています。
わかりますか?
真理ではなく概念を、です。
私も過去に同じ失敗をしたのでわかるのですが、
真理についての描写は真理ではありません。
愛についての描写は愛ではないのです。
海を掴もうと海水をボトルに入れて持ち帰っても、
海を理解したことにはならないように、
描写を通して愛を掴もうとしても、
愛に触れることはできません。
A 仰ることはわかりますが、
私たちだって愛を知っていると思うのです。
私 はい、それは一瞬かもしれないし、
時折感じることかもしれませんが、
殆どの方は愛に触れたことがあると思います。
A そうでしょう?だから言っているのです。
あなたが愛について具体的に描写したら、
「自分だって愛はある」と私は思えるのです。
私 日常生活の中で、自我が大人しくなる瞬間を
あなたは味わったことがないですか?
A あります。
何かに夢中になっているとき、我を忘れます。
私 その瞬間です。
自己が止んだ瞬間、愛はそこに在ります。
自我が止むと、あなたが愛を求めなくても
愛はそこに在ります。
・恋人の話に耳を傾けているとき
・まだ幼い子供が無邪気に笑い合っているのを見るとき
・赤ちゃんを見るとき
・迷子になった子供に話しかけるとき
・困っている人に手を差し伸べるとき
・心の美しい人に出会うとき
・友と対話するとき
・悩みを抱えている友と一緒にいるとき
・我を忘れるとき
・早朝、小鳥のさえずりを聞くとき
・荘厳な山を目にするとき
・空一面に輝く星を見るとき
・海や川を眺めるとき
・鴨の水浴びを見るとき
・太陽の暖かさを感じるとき
・和やかな風が頬を撫でるとき
・セメントの隙間から萌え出づ雑草をみるとき
・裸木をみるとき
・雨音を聴くとき
・モーツァルトやベートーベンの音楽を聴くとき
・心を注視するとき
・広大な世界が涙を流しているように感じるとき
・人間の尊厳を奪われた人達の苦しみを感じるとき
このようなとき愛が流れているように思います
A しかしこのような瞬間は誰にもあるのに、
何故あなたは愛が在るとき利己性はないと
言い切るのですか?
これを聞くと殆どの人は利己的だから、
愛することはできないんだと思ってしまいます。
私 言い切っている訳ではありません。
ただ事実を伝えています。
このことを一緒に調べてみましょう。
あなたが愛を感じる瞬間に利己性はありますか?
無邪気な子供の笑い声に微笑むとき、
あなたの内部に利己性は存在しますか?
A 微笑むときはありませんが、
うるさいと思う時には利己性が存在すると思いますw
私 仰る通りです。
愛が在るとき利己性は存在しせん。
善と悪が内部で同居することはないように、
愛と利己性が共存することはありません
愛が在るとき自我は存在できず、
自我が存在するとき愛がありません。
ですから愛は『あるかないか』の二択しかあり得ないのです
あなたが仰るように殆どの人は利己的なので
自我が不在のときなんて滅多になく
したがって愛を感じることも滅多にありません
だからこそ私たちは自らの利己性に
目を向けなければならないのです
自分自身の利己性に敏感でなければ私たちが愛に出会うのは
いつも一瞬であり愛がいつも流れることはありません
A 誰もが愛に触れているということですね?
誰もが愛を内に持っているということですね?
私 あぁ、あなたは愛を観念にしようとしています。
あなたの中身が利己性で一杯のとき、
あなたの内に愛が溢れることはないし、
そもそも愛を内に持つことなどできないのです。
人はみな愛を内に持っているという概念は、
希望を与えてくれるし、
いつも内部に愛はあるんだ、
という気持ちにさせてくれるかもしれませんが、
これは事実ではありません。
事実は利己性が活発なとき、
私たちは誰も愛することなどできません。
利己性は大体いつも活発なので、
一日の大半私たちには愛がないということです。
だから人を傷つけても何とも思わないし、
競い合うことにも違和感がないのです。
一日に数分愛を感じるとしても、
私たちは利己性を一掃しないかぎり、
一日の大半を愛を感じずに過ごすことになる、
という事実を見つめましょう。
愛のない人生がいかに冷たく虚しいか、理解しましょう。
内なる自我が姿を消すとき、
人はようやく愛に触れます。
風のように愛は来ても見えず、
去っても跡を残しません。
「凄いだろ、これが私の愛だよ」
と自慢げに主張してくる自己が不在のとき、
愛は自然にそして何の前触れもなく、
私たちの身体を通して流れ行動に現れるのです。
自己という中心から生じる想いを一掃したとき
残るものが、不純物を一切含まない愛なのです
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