不倫の背後にある自己中心性・利己性

2020/02/06

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前回不倫騒動について思うところを書いたのですが、
投稿したものを読み返してみると、
考察が不十分だなと思いましたので、
もっと深く掘り下げたいと思います。

前回の投稿では
葛藤や嫉妬とは無縁の愛で人が結ばれるとき、
別の相手に性欲を感じるのかどうなのか、
また性欲を感じるのだとしたらそれはもう、
愛とは別のものではないかということを
読者に投げかけて終わりにしましたが、
不倫や離婚という問題の背後には、
私たちの人間関係がひどくいい加減なものに
なっているという現実があるのではないかと思うのです。


前回の記事:愛・誠実さ・貞節さとは





不倫の背後にある自己中心性・利己性



一人の相手を捨て別の相手へと移っていく、
誰もが自由の名の下に、
好きなことは何でもしていいのだと思っている、
それをクールだとさえ思っている、

自分の快楽のみを追い求め、
相手のことはこれっぽっちも考えない、
自らの行動に対する責任も、
相手に対して何の尊敬も責任感も持たない。

誰もが自分のことだけを考え、他人のことはどうでもいい。

このような私たち一人一人の自己中心性が、
不倫という行動にあらわれるのではないでしょうか。

相手より自分が大切な人は
きっかけさえあれば不倫もするでしょう。

不倫報道が多くなったということはそれだけ
自分のことしか考えない人が多くなったということでしょう。





放縦は自由ではない



私たちは自由という言葉で自らの自己中心性を覆い隠します。

しかし放縦は自由ではありません。

放縦は「自分」に囚われ縛られているので、
決して自由ではありません。

自らの欲望、自らの信念、自らの執着、自らの理想に
繫がれている精神は自由でもなんでもなくて、
とても不自由な精神です。

自由は利己性に都合の良い言葉ではありません。

自由とは何にも誰にも縛られない、
囚われない精神のことを言います。

結婚しても別の人と性的な関係がもてるというような取り決めを、
多くの人は羨ましがり自由な関係だと思っているようですが、
性欲に支配されている人、感覚の奴隷である人に、
自由という言葉は全く以て不釣り合いです。





自由とは



自由には責任が伴います。

何にも縛られないで生きるには、
自らの行動が利己性に染まらないよう、
十分に気をつけていなければなりません。

欲望や快不快によって行動を決定してはいないか、
自らの内面の動きに細心の注意を払うことによって私たちは、
何にも縛られない自由を手に入れるのであり、
それには途方もない責任感を要します。

ですから自由というのは一般的に考えられているような
責任感とは全く無関係のものではなくて、
責任、愛、優しさと置き換えることができるものです。

行為の中心にいる「わたし」が止むとき、
私たちは自由を優しさを愛を、責任感を
人類全体に対して、いえ自然や動物に対しても
感じるのだと思うのです。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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