A お肉を食べることに抵抗があります。
  以前は「美味しー」って食べてたんですけど、
  なんかこいつらも生きてたんだよなって考えちゃって

私 そのように思うのは、
  あなたが動物の命に敏感だということなので、
  その気持ちを大事にされてはいかがですか?

  20年前私も同じように感じ、
  以来動物肉を摂っていませんが、
  健康にエネルギッシュに生きていますよw




A でも私が食べなくたって、
  こいつらはどうせ食べられるんだよなあ。
  私が食べなくてもどうせ殺され捨てられる。
  何が正しいのか分かりません。

私 あなたが動物の命を奪わずに生きることができれば、
  他の人にもできるいうことですから、
  あなたができれば動物の命を奪わない世界を作ることも、
  不可能ではありません。
 
  食べる人が少なければ屠殺場も減り、
  屠殺場が減ると殺される動物の数も減る。
 
  私たちが動物肉を食べるということは、
  屠殺場での残虐な行為を容認すること、
  加担することになりませんか?




A そうですね。でも友達は
 「肉や魚を食べなくても野菜を食べるなら
  野菜を殺していることになるよね」と言うんです。

 「あなたは植物は食べるでしょう?
  何か食べないと死ぬよね?
  植物と動物の線引きをしているよね?
  植物を殺して食べている人間がどうして、
  動物を殺して食べることを非難できるの?
  誰もが生きるために、
  何らかの命をいただく必要があるのなら、
  動植物を選別する意味はないんじゃない?」と

  このように言われたら、あなたはどう答えますか?


私 必ずそのように仰る方がいます。 
 
  しかし私たちは生きていかなくてはならないでしょう?
  太陽と光だけで生きてはいけないでしょう?
  
  勿論、植物も動物と同じ命です。

  しかし野菜を殺すことは悪くないのか、
  という問いが生まれるのは、
  人間が頭で生きているからで、
  知覚を伴う感情を全く頼りにしていなからです。

  ここにキャベツがあり、牛がいます。

  牛の首を切ることとキャベツを切ること、
  あなたは同じように行えますか? 
  
  あなたが同じように行えなければ、
  あなたは動物と植物の命を線引きしている、
  ということになりますか?

  違うでしょう?

  あなたの知覚が、あなたの英知が、
  牛の首を斬ることを躊躇するのであって、
  あなたが命を線引きしているわけではありません。

  人間は絶望的に、頭でっかちになっています。

  脳は十分すぎるほど発達したのかもしれませんが、
  知覚は同じように成熟してはいないようです。

  なぜなら私たちはテストの問題を解くかのように、
  命について議論するからです。

  私は動物の命を奪いません。
  傷つけないし、殺しません。
  なぜなら殺すことはよくないからです。
  ただそれだけです。

  明らかなときには、何をすべきかハッキリしています。

  明晰なとき、人は選択肢をもちません。

  殺さないということが明らかなので、
  動物を食べる・食べないの選択肢はありません。




  巧妙な思考でもって、命を計りにかけているのは、
  問いをした人物であって、私ではありません。

  命を犠牲にすることは、
  やむを得ないことだと結論づけて、
  動物の命を奪い続ける己の残虐性を、
  正当化してばかりしていないで、
  自分があらゆる命に敏感であるか確かめてください。

  人間の暴力性は何も、食に限ったことではありません。

  菜食になるかならないかが、問題ではありません。

  人間の暴力性・残酷さが問題なのです。

  ですから全ての生き物の命を、
  極力奪わないよう、傷つけないよう、
  生きることが大切なのです。




  あなたがエスキモーで不毛の地に住んでいたら、
  生き延びるためには狩猟は不可欠ですが、
  様々な野菜や果物に恵まれた地に住んでいるなら、
  容易に野菜食で生きることができ、健康でいられます。
  
  人間の命は他の生物の命の犠牲によって、
  成り立っていますが、だからといって、
  人間が動物の命を奪ってよい、
  ということにはならないのです。

  野菜食で生きられるのに動物の命を奪い続けることは、
  暴力以外の何ものでもありません。




A 豚や牛を食べても何も思わないけど、
  猫や犬、イルカなどに私たちは、
  全く異なる反応をしますが、
  それはどうしてでしょう?

私 動物によって態度が変わるのは、
  私たちがそのように条件付けられているからです。

  牛・豚・鶏は家畜、犬・猫はペット、
  イルカは知能が高いから別格というように、
  私たちの脳は長い年月をかけて、
  条件付けられているため、
  どの動物の命も尊い命に変わりはない、
  という明白な事実さえ見ることができません。
 
  伝統的に食肉の習慣があったかどうかで、
  それぞれの動物への対応が変わるのは、
  私たちが伝統という過去に、縛られているからです。

  伝統というフィルターを通してしか見ることができないから、
  私たちは特定の生き物に対して、冷酷で残酷なのです。




A しかし子供の頃から当たり前にしてきたことを、
  変えるのは簡単ではありませんよね?

私 はい、どのような習慣も変えることは、
  簡単ではありません。

  しかし最も困難なのは、
  食習慣を変えることではなくて
  内なる暴力性・残虐性を見ることです。

  肉や魚を食べることが、
  普通だとされる社会で育った私たちは、
  動物の命を奪っているという事実を、
  見つめること、そしてそれを、
  残虐な行為であると認めることができません。

  だから屠殺場はいつまでも、存在するのです。




  しかしもし生まれたときから、
  牛や豚がペットとして可愛がられていたなら、
  私たちは決して彼らを殺して、
  食べようなどとは思わなかったのではありませんか?

  このことからもわかるように重い条件付けが、
  私たちの行動を決定しています。

  過去に当然のこととして行われてきた行為を疑って、
  調べてみなければ、私たちはいつまでも、
  条件付けから自由にはなれないのです。

  ですからまず条件付けられていることに、
  気づくこと、そして当然のことと、
  思っていることの真偽を確かめましょう。
 
  条件付けが自分を盲目にして、
  冷酷に残酷にしたことを悟るとき、
  その洞察がこれまでの条件付けを解体します。

  条件付けから自由になったとき、
  私たちは初めて正しい行動をとれます。




A 私たちにできることは命に感謝し、
  無駄にしないことだと主張する人もいますが、
  これについてはどう思われますか?

私 いただく命に感謝し無駄にしないことが、
  自分にできる唯一のことだと結論付ける前に、
  それ以外にできることは本当にないのか、
  調べましょう。

  命に感謝し無駄にしないことが、
  私たちにできる唯一のことなのか調べるのです。

  不必要に動物の命を奪ってはいないかを、
  自分自身に正直に問うてみましょう。



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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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