疑うことも信じることもせずありのままを観察する

2019/11/01

イメージ 概念 関係 気づき 観察 実践

t f B! P L



質問:人を信じない方がいいですか?
   疑いながら生きないと危険ですか?




目の前の相手をあなたが正しく観察できていれば、
人を信じる必要も疑う必要もないのではありませんか?


相手のことを偏見や意見を交えず見ることができれば、
相手を信じたり疑ったりしなくてすむのではありませんか?

そのような観念をもつ必要はないのではありませんか?





一定の距離をとって人と関わる



自分の領域に踏み込まれることを恐れます。

しかし私たちは子供の頃からそうだったのでしょうか?
何度も傷ついて心を閉ざすようになったのではありませんか?

子供の頃はもっと無邪気に純粋に、
人に心を開いていませんでしたか?





イメージをもっていると必ず衝突する



相手を疑ってかかったり、
ある特定のイメージを相手に持って接していると、
私たちは必ずぶつかります。

互いが互いのイメージをもっているとき、
私たちはイメージとしか関われません。


あなたの持つ相手のイメージとありのままの相手には
相違があります。

あなたは自分のもつ相手のイメージを相手と思って接しますが、
あなたのイメージと生身の相手は異なります


生身の相手の反応は、あなたの予想と違うからぶつかるのです。




相手が喜んでくれると思って贈ったプレゼントなのに、
相手の反応が予想してた反応とは違った
なんてことはありませんか?

xxを言ったら相手はこう反応するだろうと先回りした結果、
逆に相手と気まずくなった経験はありませんか?

これはあなたが実際の相手を見ていなかったことが原因です。

あなたが築いたイメージと接していたことが原因です。





イメージが理解を妨げる



どんなイメージであれどんな観念であれそれに囚われていては、
相手のことを理解することはできません。

無邪気で純粋な目でみる子供のように、
偏見や固定観念を捨てて、他者を見つめなければ
相手を理解することはできないのです。


相手を信じるというのも疑うというのも、
あなたは一定の結論に至るということです。





結論に達した精神は鈍感



既にわかったことに、
私たちが敏感に機敏に反応することはできません。

相手に対してある結論に至るときには、
相手に十分気づいていることはできないのです。

観た映画をもう一度観るときのように、
あなたの精神は一回目のように機敏ではありません。






相手を疑わったり信じないで観察する



相手に十分に注意を払えていれば、
相手を疑うことも信じる必要もありません。

あなたのこの純粋な眼差しが、
相手のありのままの姿を明らかにします。


相手を信じたり疑うことが、
ありのままの姿を明らかにするのではありません。

信じる眼鏡、疑う眼鏡をかけることは危険です。

なぜならその眼鏡はあなた色に染まっているからです。

あなた色に染まった観察は、正しい観察ではありません。

相手を正しく見ることができないということは、
相手を理解できないということであり、
理解できないと相手と深く交わることはできません。

深い人間関係を妨げるものこそ、危険なのです。




もう一度言います。

観察にバイアスがかかると、
相手を精確に見ることはできません。

あらゆるバイアスを取り除いて初めて、
相手を歪みなく見つめることができます。

目の前の相手をありのままに見ることが一番安全です

いかなる信念も概念も、携えてはなりません。

あなたが人を疑って生きるとしても信じて生きるとしても、
それがあなたの観念、あなたの眼鏡となって
観察を歪めてしまうので
ありのままの相手を見ることはできないのです。





関連記事
結論は探究心・好奇心を殺す
自分をさらけ出す友との対話
心理的記憶を一掃して人と本当に関わる
イメージを手放さないと真の関係は築けない

このブログを検索

アーカイブ

自己紹介

自分の写真
真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

問い合わせ

名前

メール *

メッセージ *

QooQ