未知のものを学ぶことが哲学・宗教である

2019/11/02

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質問:哲学と宗教は相容れないのか?


哲学とは情熱をかけて未知のものを学ぶことです

哲学についての詳細はコチラ ↓ 
   生の全体性に及ぶ哲学:哲学は役立つのか



宗教は、現在何かを信仰することとして用いられますが、
本来宗教とは人が苦しみや悲しみを超えたもの、
時間・思考・自己を超えたものを探究していく過程において
神や救世主という概念を作り出し崇めるようになった為、
今では特定の概念を信仰し儀式を行うことを
概して宗教といいますが、本来宗教とは哲学同様、
未知への探求だったのです。

ですので哲学・宗教と名前は違えど
未知を探究するという点において同じではないでしょうか!

宗教と既存宗教の違いについてはコチラ ↓ 
   分離・争いを生む既存宗教は全人類に必要なし




質問:では哲学とは学ぶものですか?感じるものですか?


哲学は未知のものを学ぶことへの情熱です。
未知のものとはまだ知らないもの、つまり現在です。

辞書や教科書、本で学べるものは全て既知の情報です。





現在は未知



現在の情報などどこを探しても存在しません。

一秒後にネットニュースになったり、
あなたの脳に記憶として蓄積されたりして、
それはすぐに既知になりますが、
現在〈いま〉という時間はいつも未知なので、
現在〈いま〉に生きることが未知を学ぶことと言えます。

ですから哲学とは過去の偉大な哲学者たちの本を読んで
考察したり知識を深めることではありません。

知恵を知識と勘違いすると、
哲学書を読んで知識を得ようとしますが、
過去の記事でお話ししました通り、
哲学書を読むことは知識を得ているのであり、
未知を学ぶことから生まれる知恵ではありません。






現在〈いま〉出会うものすべて未知



散歩道の木や葉の一枚一枚、肌に触れる空気の感触、
目を閉じたときに光がまぶたの上で踊っている感じ、
子供の笑い声や車の音、川の流れ、カラスや犬や猫の動き、
通り行く人の表情、話している相手の表情....

この全てに気づいていることで、私たちは多くを学べます。

現在〈いま〉に生きるには、鋭敏な精神が必要です。

ボクシング選手に動体視力が必要なように、
動いているものを観察する私たちの精神は、
柔軟かつ鋭敏でなければなりません。


自分の記憶に安住している精神は、
決して現在〈いま〉にいることはできません。

彼はいつも自分の知識をたよりに現在を見るため、
その観察はいつも過去に歪められます




刻々と変わるのが、現在〈いま〉 です。

動いているのが、現在です。

その動きについていくには、
五感を研ぎすませていなけれなりません。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚すべてを働かせ、
現在〈いま〉に出会うのです。


従って今回の問いの答えですが....

学ぶことと感じることは、
同時に起こるのではないでしょうか?

学ぶためには、
五感が働いていなければなりません。

現在〈いま〉に生きるには
五感がフルに働いていなければ不可能です。






目の前のものに新たに出会う



いつもの空、いつも話す相手ではありません。

同じ空、同じ葉っぱは存在しないように、
あなたが今日出会う相手も、昨日出会った相手とは違います。

まるで初めて会うかのように、相手を観察しましょう。





初対面の人と会うと疲れませんか?



それはあなたにとって相手は〈未知〉なので、
意識が相手にすべて注がれるからです。


普段そのような注意を払っていないから、疲れるのです。

自分の言動に、細心の注意を払います。

相手を理解したいから、
相手からのどのようなサインも見逃しません。

あなたの全エネルギーが相手に注がれます。

私たちがこのように注意を払って人や自然と接するなら、
心理学や自己啓発本から知り得るものよりずっと多くのことを、
純粋な観察を通して学べるのではないでしょうか!





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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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