瞑想とは正しい行為がとれるよう意識の中身を空にすること

2020/06/26

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瞑想は意識の中身を空っぽにすることだと
いうことはこれまでお話した通りですが
空っぽという言葉に抵抗を感じる方が
いましたので『空にする』ということ
について説明します

※『意識について



空ける・開ける・明ける

これらの言葉には何かが生まれる
可能性がありませんか?

・手が空いている ・からだが空いている 
・夜が明ける ・年が明ける ・開放
・窓を開ける ・開店 

あいているというのは何か
新しい可能性の前提ではないでしょうか?

つまり意識を空っぽにすることで
私たちがよく知る意識以外の
意識を見出せるかもしれないのです



私たちが現在知っている意識の中身とは...

苦しみ・悲しみ・楽しみ・劣等感・寂しさ・恐怖
野心・憎しみ・欲望・願望・理想・観念・イメージ
信念・信仰・知識・経験などの感情+思考+知覚です

意識の中身がすべて過去であることを
理解して意識が過去で埋め尽くされて
いるかぎり、生は過去に支配されて
しまうことを洞察すると洞察が
意識の中身を一掃します



こうしてこれまでの意識の中身を一掃すると
過去とは全く関係のない意識に出会える
可能性が出てきます

時間とは一切関係ない意識
思考を超えた意識に出会える
可能性が生まれます

思考に基づいた部分的な行為しか
知らない私たちが思考に染まらない
行為をとれるかもしれないのです

※『全体的な行為について
 『エゴを落とすと誰とも衝突しない行為がとれる



思考に基づいた行為は部分的で利己的です

なぜなら「私」や「あなた」という個人の主観に
~欲望や願望、好き嫌いや損得勘定
すべき・すべきでないという観念や理想に~
限定された行為だからです




一方、思考に左右されない行為は
主観に左右されないので
それは部分的ではなく
全体的な行為と言うことができます

この全体的な行為は何にも制限されません

なぜなら行為の中心に
『わたし・自己・エゴ』はいないから!

『わたし』に限定されないからです

あなたや私が『わたし』と呼んでいる自我が
あらゆる混乱の原因でしたが
それが不在なので行為には秩序があります


※『正しい全体的な行為
 『正しい行為は混乱が終わるとき生まれる



中心に『わたし』不在の行為は誰とも衝突しません

一方、行為の中心に『わたし』がいる
行為は必ず誰かと対立してします

私のやりたい事とあなたのやりたい事は
違うのでそこに分離が生じます

この分離はそれぞれの【利己性】によって
生まれました

そして分離のあるところには
必ず対立が起こるので
私たちはぶつかるのです

しかし利己性の影のない行為は
誰とも対立することはないので
ぶつかりたくなければ
私たちは皆、エゴを落とす必要が
あるのです



意識を空っぽにするとはエゴを一掃することです

ですから意識が空っぽになることを
恐れる必要は全くありません

わがままな性質が抜け落ちるだけなのですから

心配どころかそれはとても
エキサイティングなことなのです



利己性の詰まった意識を一掃することで
私たちは他者との間にある見えない壁を
取り除くことができるし人とぶつからない
行動がとれるようになります

意識を空っぽにすることは
どんな娯楽より楽しくて
スリリングなことなのですwww





よくチューニングされた太鼓は
叩けば即、適切な音を出すように
過去という既知を落とした意識は
状況に即した行動を瞬時にとります

そしてその行為には秩序があります

それは思考によって入念に計算された
秩序とは全く異なる秩序です

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真理探究に15年を費やした後あらゆる修行・規律・イデオロギーは不毛であると気づく。以来感覚だけを頼りに思考と感情を刻々と観察しながら自己について学んでいる

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